彼の名は健太。
大学を卒業したばかりの彼は、旅をすることが好きだった。
特に、人が少なく静かな場所を求め、自然を感じることができるところに魅力を感じていた。
今回、彼はとある山奥の村を訪れることにした。
その村は、昔から神聖な場所とされており、訪れる者には霊的な経験が伴うと言われていた。
村に着くと、健太は周囲の静けさに圧倒された。
まるで時間が止まったかのような静謐な空気。
彼はそのまま村の中心を歩くと、古びた道に差し掛かった。
その道は、人々の足がほとんど踏み入れることがないのか、茂みが道を飲み込むかのように茨が生い茂っていた。
彼は好奇心に駆り立てられ、そのまま進むことにした。
道を進むにつれて、霧が立ち込めてきた。
朝のうちは晴れていたはずなのに、急に視界が悪くなり、健太はどこに向かっているのかも分からなくなった。
この霧はただの自然現象ではないような気がした。
心のどこかで、何か不気味なものを感じていた。
彼は懐中電灯を取り出し、霧の中を照らすが、先が見通せない。
ついに、健太は道の終わりにたどり着いた。
そこには一軒の古い家があった。
窓は割れ、屋根も崩れかけているが、それが逆に彼の好奇心を掻き立てた。
彼は恐る恐るその家の中に入ってみることにした。
ドアは錆びていて、押すときしむ音がした。
中に入ると、薄暗い廊下が延びており、一歩踏み出すごとに、床がギシギシと音を立てた。
廊下を進んで行くと、奥の部屋からかすかな声が聞こえた。
「助けて…」というか細い声。
心臓が高鳴り、彼は声の主を求めてその部屋へと向かった。
部屋は暗く、たくさんの古い家具が積み重なっていた。
声の発信源を探し続ける中、彼の目に入ったのは、床に横たわる一人の男の姿だった。
彼は痩せ細り、たまらなく痛々しい。
「お前、助けてくれ…」男が健太に向かって手を伸ばした。
その瞬間、健太は背筋が凍りつくのを感じた。
男の顔はどこか歪んでいて、目は虚ろであった。
彼はぞっとしたが、逃げることができなかった。
男の名前を尋ねると、彼は「道男(みちお)」と名乗った。
その名前もまた、不気味に響いた。
道男は、彼に自身の過去を語り始めた。
数十年前、この村に訪れた旅人であり、ここに来た途端に霧に包まれてしまったらしい。
そのまま家の中に閉じ込められ、外に出ることができないまま、永遠にこの場所に縛られているという。
健太はその話を聞くうちに、心の奥から恐れが湧き上がるのを感じた。
「私は帰りたい…」男は叫んだ。
その声は次第に激しさを増し、周囲の空気は張り詰めた。
彼はとにかくこの恐ろしい場所から逃げ出したいと思ったが、何故か体が動かなかった。
「道をひらけ…!」道男が叫んだ刹那、霧が急に濃くなり、健太の視界は真っ白に包まれた。
その瞬間、彼は何かに引き寄せられるように感じた。
声や視覚が奪われた中、健太は自分の背後に温かい腕を感じた。
振り返り、そこには漠然とした光が漂っており、その中に道男の姿が浮かび上がった。
「もう、行ってはならぬ…」彼は涙を流しながら、健太に訴えた。
そんな声が響く中、彼はついに恐怖に耐えかねて逃げ出した。
再び道に戻ると、霧はすでに晴れていた。
周囲の景色が元通りに戻る。
村の人々はいつも通りの日常を送っており、誰もが今の健太に目を向けることはない。
彼は急に孤独を感じた。
道男の声は耳の奥でこだましていた。
「見つけるな、見つけるな…」
この旅の終わりを迎えながら、健太はその記憶を心の奥にしまい、二度とこの村には戻らないと誓った。
そして彼は、無理に思い出さないよう、日常の忙しさに身を委ねていった。
しかし、道男の無念の声が、いつも彼の心のどこかでちらついていたのだった。