「霧の中の別れ」

田中信夫は、山あいの小さな村に住んでいる老齢の男だった。
彼の人生は長い時間の中で、数多くの人々とその思い出で満たされていた。
だが、村には長年語り継がれている奇妙な話があった。
それは「霧の中に潜む魂」の話だ。

村では、霧が立ち込めると、決まって親しい人々に呼びかける声が聞こえるとの噂があった。
それは、失われた魂たちが、愛する者に最後の別れを告げようとしている声だと言われていた。
信夫は、その噂を聞いた時、心のどこかでそれを信じていた。
彼は今まで多くの葬儀を見送り、これまでの人生を振り返ることが多くなった。
時折、霧の中で見えない誰かの声を耳にするようになった。

ある晩、濃い霧が村を包み込み、まるで世界が灰色のカーテンに覆われたかのようだった。
信夫は、長年の友であった佐藤義男の死を思い出し、寂しさを感じながら外に出た。
いつもは賑やかな通りも、霧に飲み込まれ誰もいなかった。
その時、ふと彼は耳元で誰かが呼んでいるような気がした。
「信夫」と、懐かしい声が響く。

その声はまるで義男のもののようで、信夫は思わず立ち止まった。
彼の目の前に、薄い霧の中から義男らしき姿が現れた。
信夫は驚き、恐れも感じたが、同時に喜びも湧き上がった。
「本当にお前なのか?」と声を震わせた。

義男は微笑み、こちらに手を差し伸べた。
「信夫、私に会いに来てくれたのですね。ずっと待っていたんだ。」信夫はその言葉に心を躍らせた。
彼は義男に導かれるまま、霧の中へと進んだ。
彼は義男が亡くなったときの悲しみから解放され、義男との記憶を思い出し始めた。

しかし、霧が深まり、彼は次第に迷子になる感覚に襲われた。
義男の姿は徐々にぼやけ、不安が心の中に広がった。
「義男、どこに行くのだ?」と叫んだ。
しかし、義男の声はどんどん遠くなり、代わりに周囲に響くのは、他の霊たちの囁きだった。
「信夫、私もここにいる」「早くおいで、ここは心地良い場所だ」— あらゆる声が彼に呼びかけ、まるで彼をこの世から誘うかのようだった。

彼は恐怖を感じ、振り返ったが、霧は濃く、足元は不安定だった。
彼はやがて、自分が何かにつかまれているような感覚を抱いていた。
それは彼の魂を引き寄せる力であり、信夫の心は次第に押しつぶされるような圧迫感を覚えた。
「彼らのもとに行ってはいけない。生があなたの居場所だ!」と自分に言い聞かせた。

だが、その時、一瞬、義男の姿が彼の心の奥底に残る想い出と共に戻ってきた。
信夫は思わず叫んだ。
「義男、私を置いていかないでくれ!」義男の幻影は再び浮かび上がり、彼を見つめた。
「信夫、私のために強くあり続けるのだ。ここは他の世界だ。生きている者が、亡き者の元へ行く資格なんてないのだ。」その言葉を信夫は胸に刻み、一歩踏み出した。

彼は自分自身を懸命に鼓舞し、霧の中を後にした。
あらゆる声が彼を呼ぶが、彼はそれを振り払い、道を探し続けた。
やがて、薄明るい光が先に見え、彼は無意識のうちにその方へ進んでいった。
胸には今まで抱いていた恐れが消え、希望と愛を持って歩いていくことができた。

村に戻った信夫は、次第に霧の存在を忘れていった。
しかし、あの夜の出来事は心の奥に深く刻まれ、時折霧の中に義男の声を聞くことがあった。
それは決して恐ろしいものではなく、彼を見守る優しい囁きだった。
信夫は、愛する者たちが自らの思い出の中で永遠に生き続けることを知った。

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