「逆さまの鏡の中」

ある静かな秋の夜、東京の小さなアパートに住む佐藤健太は、仕事帰りの疲れを癒すためにコーヒーを淹れていた。
彼の部屋はいつも整理整頓されており、朗読用の本が積まれている。
その夜も彼は好みの恐怖小説を手に取り、静かな時間を楽しむつもりだった。

突然、彼の携帯電話が鳴った。
画面には「ラ」という名前の知らない番号が表示されていた。
興味本位で電話に出てみると、かすかな声が聞こえてきた。
「助けて…ラ…誰かが…」その瞬間、途端に通話は切れた。
健太は胸騒ぎを感じ、何か気味が悪いものを感じた。

彼はその名前がどこか知っているような気がしたが、すぐには思い出せなかった。
翌日、健太は仕事中もその電話のことが気になり、思考がまとまらなかった。
不安が募る中、帰宅後、改めてその番号にかけ直してみたが、応答はなかった。
彼はそのまま寝ることを決めたが、頭の中には「ラ」という名前が繰り返し浮かんできた。

数日後、また同じ番号から電話がかかってきた。
「ラ」と名乗るその声は、やはり助けを求めているように聞こえた。
彼は心のどこかでこの声に引き寄せられるような感覚を覚え、再び通話を試みたが、その電話は通じないままだった。
まるで意識が間接的に訴えているかのように。

数日後、健太はその電話の正体を突き止めようと、自分の周囲を調べ始めた。
彼のアパートの近くには、数年前に廃墟となった古い病院があった。
噂によればそこでは、かつてひどい事故があり、多くの人が命を奪われたと言われていた。
彼は無謀にも、その場所を訪れることにした。

廃墟に入ると、静まり返った空間に不気味な緊張感が漂っていた。
すると思いがけず、彼の携帯が鳴り響いた。
画面にはまた「ラ」の名前が表示されている。
驚いた健太は即座に応答したが、その声は朦朧としたものであり、何を言おうとしているのか分からなかった。
しかし、彼はその声の背後に強い感情を感じ取り、何かが彼を導いているような気がした。

彼は声の指示に従い、病院内の奥深くへ進んでいく。
すると、ある一室で奇妙な物体を見つけた。
それは古い鏡だった。
鏡には鮮やかに「ラ」と刻まれた文字が浮かび上がっていた。
神経が尖り、健太はその鏡と向き合った。

すると、鏡の中に「ラ」の影が映り込んだ。
前髪が乱れ、顔は不明瞭だけれど、彼女の目だけが真っ直ぐにこちらを見つめていた。
悪夢から逃げようとするように、影は何度も手を伸ばしては引っ込められた。
健太は恐怖に駆られ、急いでその場を離れようとしたが、心惹かれるように後ろを振り返ってしまった。

その瞬間、奇妙な逆転現象が起きた。
鏡の中の「ラ」が実体化し、彼へと近づいてくる。
また彼は自分の姿が鏡の中で逆さまに映り、同時に「ラ」の声が心の奥で共鳴した。
「助けて、私を…解放して…」

驚きと恐怖から健太は動けず、彼の内側で何かが崩壊する感覚が広がっていった。
果たして、彼が「ラ」を助けようとした瞬間、逆に彼自身が「ラ」の存在と結びついてしまった。
健太の姿は次第に鏡の中に吸い込まれ、「ラ」は自由を手に入れることができた。

翌朝、何事もなかったかのような静けさの中、健太の部屋は整理されていたが、彼の意思はなくなっていた。
電話には依然として「ラ」という名前が残っているだけだった。
いつの間にか、彼の外見も変わり、ただの影のように周囲に紛れ込んでしまったのだった。

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