ある夏の夜、温泉宿「静悦荘」は、近隣の観光客で賑わっていた。
露天風呂に浸かりながら星空を眺める客たちの中に、田中直樹という若者がいた。
彼は長い週末を利用して、心身をリフレッシュするために一人旅に来ていた。
直樹は宿の温泉が自慢と聞き、ふと気になったのは、宿の主が語っていた一つの言い伝えだった。
ある年のある晩、温泉の向こうの山から「突」と呼ばれる怪現象が目撃されたという。
それは突然山の方向から生じ、温泉の水が異常に温かくなったかと思うと、一瞬で冷たくなった。
そして、その夜に露天風呂に入っていた人々の何人かは、夜明けとともに姿を消してしまったというのだ。
好奇心に駆られた直樹は、その言い伝えを心の片隅に置きながらも、特に気にせず温泉に身を委ねることにした。
星空を見上げながら、彼は特別な夜を楽しんでいた。
しかし、時間が経つにつれて、温泉から上がる気配が消え、静寂な夜が不気味さを増していく。
突然、何かが直樹の心を不安にさせた。
山の方から風がひゅうっと吹き、彼の背筋に寒気が走る。
そして、しばらくして直樹はふと温泉の水面を見つめた。
水面には、一瞬だけ異様な波紋が広がり、その瞬間、彼の足元で何かが動いたように感じた。
恐れを感じながらも、直樹は温泉に身を沈めたまま目を閉じ、周囲の音に耳を傾ける。
その時、奇妙な囁き声が周囲に響いた。
「己を知れ、己を。」その声は彼をまるで試すかのように不気味に響いていた。
直樹は恐怖を感じながら目を見開いたが、周囲には誰もいなかった。
彼は心を落ち着け、今起きたことを夢か幻覚だと自分に言い聞かせた。
しかし、その後、温泉の水は急に冷たくなり、さらなる不安が直樹を襲った。
と思った瞬間、背後から冷たい手が彼の肩に触れた。
その瞬間、彼の中に「逃げろ」という強烈な感情が突き抜けた。
直樹は急いで温泉から飛び出し、館内へと駆け込んだ。
彼の心臓は激しく鼓動し、不安感が増していく。
館内は静まり返り、まるで誰もいないかのようだった。
直樹は急いで自室へ向かい、ドアを閉めたが、彼の中には異様な感覚が残っていた。
その夜、彼は恐怖に包まれ、何度も目を覚ますこととなった。
しかし、目を覚ますたび、彼の心に浮かぶのはあの不気味な囁き声だった。
「己を知れ、己を。」そして、徐々に虫の音が聞こえなくなり、次第に静けさが不気味な重さを増していった。
やがて明け方を迎え、直樹は窓の外に目を向けた。
温泉宿の周りの山々は静まりかえっていた。
その瞬間、彼はふと気付いた。
あの言い伝えは、宿の主が言っていた「突」にまつわることだったのだ。
もし、あのまま温泉に浸かっていたら、彼もまた姿を消してしまっていたのかもしれない。
彼は急いで宿を後にし、温泉から逃げるようにその場を離れた。
何とか正気を保ちながら帰路についたが、心配事は解消されることなく、日常生活に戻っても、時折その囁き声が耳に響くことがあった。
「己を知れ、己を。」
それから数年が経ち、直樹はあの温泉宿を訪れることはなかった。
しかし、夏になるとその時のことを思い出し、冷気が背筋を走り、まるであの宿の影が彼を連れ去るかのように感じるのだった。
気がつけば、彼の日常は、それまでの穏やかさが失われ、常にその影に怯えながら過ごすこととなった。
やがて、彼は「終」わりのない悪夢に囚われ続ける運命を背負うことになったのであった。