美しい山々に囲まれた静かな宿、その宿には噂があった。
「宿に泊まった者は、元に戻れないことがある」と。
そんな話を聞きつけた旅行者の佐藤は、好奇心を抑えきれず、その宿を訪れることにした。
宿に着いた佐藤は、外観からは想像できないくらいの温かい雰囲気に迎えられた。
宿の主人である中村さんは、親切で落ち着いた雰囲気の中年の男性だった。
彼は「ここでゆっくりしていってください。何か気になることがあれば、お気軽にどうぞ」と言った。
夜が更けていき、佐藤は部屋で一人静かに過ごしていた。
宿の静寂に包まれ、外からは虫の声が聞こえる。
また、部屋の窓には直径が大きな月が煌々と輝いていた。
その光は、宿の中にも柔らかな光を落とし、どこか神秘的な雰囲気を醸し出していた。
翌朝、佐藤は宿の主人に「昨夜のことですが、宿にいると時間が異なるように感じました」と告げた。
中村さんは少し動揺した様子で、「それは、宿の持つ特別な力です。ここには縁を感じることが大切なんです」と答えた。
佐藤はその言葉の意味がよく分からず、ただ頷くしかなかった。
数日後、佐藤のもとに一通の手紙が届いた。
それは、彼の故郷にいる幼馴染の田中からのものだった。
手紙には「最近、君のことをよく思い出す。昔のように会いたい」と書かれていた。
佐藤はその言葉に感動し、宿での生活がこうした縁を再び生むことを実感した。
しかし、その手紙の内容を思い返すうち、何か異様な感覚に襲われた。
佐藤は日が経つにつれ、宿の中で以前喪失感や後悔を抱いていたことが蘇ってきた。
そして、彼は感じるようになった。
周囲の空気が、挨拶をしてくれる「元」ではない誰かに囁いているかのようだった。
その夜、眠りにつこうとしたとき、ふと目を覚ました佐藤は、部屋の隅で何かが動くのを見た。
薄暗い光の中に、ぼんやりとした影が見える。
彼は恐怖に駆られつつも、目を凝らした。
影は、かつての友人である田中だった。
「どうして、そんなに長く会えなかったの?」
その声に驚き、佐藤は思わず後退った。
しかし、影はただ微笑んで、彼に近づいて来た。
彼は内心混乱し、涙が滲んだ。
「お前…本当に田中なのか?」と尋ねると、影は「君の心の中にいる。縁って、出会うために必要なものだから。これからの未来も、ずっと一緒なんだよ」とささやいた。
翌朝、宿の主人にその夢のことを話すと、中村さんは深く頷いた。
「夢はあなたが望むべき縁の一部。ですが、現実として望んでいたものと異なる時もあります。」その言葉が思いのほか重く響く。
数日後、佐藤は新しい宿泊客となる別の旅行者たちと出会った。
その中に見たことのある顔がいた。
彼は田中を見つけたかのように錯覚してしまった。
「おかしい…まさか、ここで会えるなんて」。
しかし、彼の心はどこか冷たく、かつての温かい気持ちの影が薄らいでいた。
その夜もまた、夢の中で田中が現れた。
しかし、彼女の表情は以前とは異なっていた。
「どうして、私に戻ってこないの?」と問いかけられた。
佐藤はその言葉に呪われたように心が締め付けられ、明け方には深い疲労を覚えていた。
宿を離れる日が近づくと、佐藤は自らの選択を迫られた。
何を選び、何を捨てるのか。
結局、彼は宿に再び来ることを選び、再会の可能性にすがりついた。
しかし、その選択が「縁」を感じる力が彼を再び深い闇へ導いていることに、気づくことはなかった。
宿は、彼の心に静かに影を落とし続けた。