「束の井戸」

井戸のそばには、村人たちが決して近づかない場所があった。
その理由は、そこには古くて深い井戸が存在し、村では不吉な噂が流れていたからだ。
井戸は何百年も前に作られたものとされ、深さは誰にも測り切れなかった。
村の人々はこの井戸の周りで、不思議な現象が起こることを知っていた。
特に、ある特定の時間に井戸の水面が波打ち、見る者の心に不安をもたらすのだった。

ある日、村に新たに引っ越してきた若い女性、名はさゆりがいた。
彼女は好奇心旺盛で、自らの目でその井戸の真実を確かめたいと思っていた。
村人たちに「近づかない方がいい」と警告されても、さゆりの心には恐怖よりも興味が勝っていた。
彼女はある晩、月明かりの中、そっと井戸へ足を運んだ。

月が空に高く昇り、井戸の水面にその光が反射して、神秘的な雰囲気を醸し出していた。
井戸の周りは静まり返り、まるでこの世のものとは思えない空間が広がっていた。
その時、突然、井戸の水が波打ち始め、まるで何かが井戸の底から浮かび上がってくるかのような感覚にさゆりは襲われた。
彼女は恐怖を感じながらも、その光景から目が離せなかった。

その瞬間、井戸の水面からふと人の姿が浮かび上がってきた。
それは薄暗い水の中から、ゆらゆらと動く白い衣をまとった女性の影だった。
彼女の顔は見えなかったが、なんとも言えぬ哀しみに満ちた気配を感じた。
さゆりは思わず声を上げそうになったが、恐怖が彼女を束縛していた。

女性の影はしばらく井戸の水面に留まり、次第に消え入っていったが、さゆりはその影が何かを訴えているように感じた。
彼女は意を決して、井戸に向かって声をかけた。
「あなたは誰なのですか?何を求めていますか?」すると、井戸から低い声が響き渡った。
「助けてほしい…帰りたい…」

その言葉を聞いた瞬間、さゆりは動揺した。
井戸に囚われている何かがいるのだということに気づいた。
彼女の心に芽生えた好奇心は、今や恐怖と密接に結びついていた。
さゆりはもう一度、声をかけた。
「どうすればあなたを助けられるの?」すると、再び低い声が返ってきた。
「束になにかを持ってきてほしい。それがないと帰れない…」

彼女は思わず考えた。
束とは何か。
物理的な束なのか、それとも心の束なのか。
その答えを見つけるべく、さゆりはその日から村人たちに話を聞くことにした。
しかし、誰もが井戸について触れようとしなかった。
近づくことすら恐れていたのである。

結局、さゆりは自分自身の力で答えを見つけることに決めた。
彼女は夜の闇にまぎれて再び井戸のそばへと戻り、自分が思いつく「束」を持ってきた。
それは、村の人々が愛してやまない植物の束、すなわち花束だった。
月明かりの中、さゆりはそれを持ち、井戸の縁に立ちながら声をかけた。
「これがあなたに必要なものなのですか?」

すると、再び水面が波立ち、女性の影が浮かび上がった。
少しずつ、その顔が見えてきた。
そこには何百年も前の美しい女性の姿があったが、その目はどこか虚ろで、悲しみを浮かべていた。
彼女は花束を受け取り、さゆりの前で微笑んだ。
「ありがとう、この束を持って帰れた…私もやっと解放される。」

その瞬間、井戸から眩い光が放たれ、さゆりは驚いた。
光が収束する中、女性の姿が徐々に消えていった。
そして、井戸の水面も静まり返り、通常の状態に戻った。
さゆりは放心状態でその場に立ち尽くしていた。

次の日、村人たちが噂を聞きつけて集まってきた。
さゆりは彼女の体験を語り、その後、もう井戸には近づかないと誓った。
しかし、いつまでも心のどこかに、その女性の悲しみが残り続けていた。
井戸から帰ってこない人がどれだけ多かったか、誰もが忘れられた存在として彼女が受け継ぐことになった。

たとえ一度解放されたとしても、井戸に交わされた約束は村に影を落とし続けることだろう。
永遠に束縛されるものがあることを、井戸は語り続けるのだった。

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