「失われた時の影」

リは小さな町で育った普通の大学生だった。
毎日、友人たちと喧嘩をしたり、笑ったりして過ごす日常に、不満を感じることはなかった。
しかし、彼の心の奥には、少し異なる感情を抱えていた。
それは「失われた時間」に対する漠然とした危機感だった。

リは大学の帰り道、いつものように街の公園を通り抜けることにした。
夕暮れ時の静かな公園は、日差しに染まる木々の影が長く伸び、まるで時間がゆっくり流れているかのようだった。
しかし、その瞬間、リは一瞬の違和感を覚える。

公園の一角に立っていたのは、アンティークな時計台だった。
町の外れにあるその時計台は、誰もが知る存在なのに、彼はなぜかその姿を初めて目にしたような気がした。
不思議な思いを抱えながら、リはその時計に近づいた。
時計の針は不気味に止まっており、薄暗い雲の影に隠されている様子が、彼の心に不安を募らせた。

その時、リの視界に映ったのは、時計台の近くで座っている一人の女性だった。
彼女は無表情で、手に何かを持っているようだった。
リは思わず彼女に近づき、「大丈夫ですか?」と声をかけた。
女性はゆっくりと顔を上げ、彼を見つめ返した。
彼女の目はどこか遠くを見ているようで、彼自身が持つ「時間の喪失」を具現化した存在に思えた。

「あなたも、時を失いたいの?」彼女は突然そう言った。
その言葉にリの心臓は高鳴った。
彼にはその意味がわからなかったが、何かを感じ取ったのは確かだった。

リはそのまま彼女の問いに答えることなく、彼女の持っているものに目を向けた。
それは一枚の古びた紙で、何かを書かれているように見えた。
しかし、距離があるためよく見えない。
好奇心に駆られたリは「それは何ですか?」と再び尋ねた。

彼女は微かに微笑んで答えた。
「これは、失った時間を思い出すためのもの。この時計を修理すれば、時間は戻ってくるかもしれない」と。
リは思わずその言葉に魅了される。
「本当に戻るのか?」と心の中で疑問が湧いた。

女性は頷き、空に手を伸ばし、何かを迎え入れるかのように空を指さした。
「でも、注意が必要よ。もしその時間を取り戻そうとするなら、何か大切なものを失う覚悟がいるから」と。

リは一瞬戸惑った。
失った時間を取り戻すために何を失うのか、考えるだけでも怖かった。
しかし、心の奥には日常の繰り返しから解放されたいという欲求が渦巻いていた。
彼は決意し、彼女の指差す時計台の方を振り返った。

彼女の声が響いた。
「時計を直すのは、あなた自身。記憶の欠片を集め、時間をつなぎ合わせるのよ」。
リはその言葉を心に留めながら、薄暗い雲の隙間から漏れるわずかな光に導かれ、公園の中へ踏み込んでいった。

だが、時間が経つにつれ、彼は徐々に周囲が奇妙な変化を遂げることに気づいた。
彼の身の回りの景色は、次第に彼が知っている風景とは異なった形に変わり始めた。
友人たちの顔も知らない年齢に加わり、彼に向かう視線は冷たかった。
その時、彼は気づいてしまった。

失った時間を取り戻そうと奮闘する彼の代償は、彼の大切な思い出たちだった。
周囲が変わるにつれて、彼の記憶からも友人たちや日常の出来事が消え去り始めたのだ。

恐怖を抱え、リは再び時計台へと急いだ。
彼女はまだそこにいた。
彼女は静かに彼を待っていた。
「あなたはもう遅すぎた」とだけ彼女は言った。
リは愕然とした。
彼女の言葉を胸に、自分が望んだものは手に入らず、逆に大事なものを、そして時間も失ってしまった。

リは永遠に取り戻しようのない「失った時間」を、静かな公園の中で感じながら、いつしか彼女と同じように、ただ時の流れに身を委ねながら生きることになった。

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